活動レポート

おっどま人間ぞ!魂よ躍れ!「2001水俣ハイヤ節」の取り組み【東京都千代田区】

2007年6月 4日

2007年6月4日に日比谷公会堂でおこなわれた「なくせ公害、守ろう地球環境」という「第32回全国公害被害者総決起集会」で、水俣病の「不知火患者会」の皆さんと『2001水俣ハイヤ節』を中心とした舞台企画に取り組みました。

荒馬座では、杉本栄子さんと一緒に「水俣ハイヤ節」の踊り指導、また当日の舞台監督などを担当しました。

(左の写真は車椅子の踊りを踊る金子雄二さんと永本賢二さん。)

「不知火患者会」の皆さんと『2001水俣ハイヤ節』に取り組んで 荒馬座 宮河伸行

踊りの師匠杉本栄子さんとの出会い

今から十年前の春のことだ。シンガーソングライター黒坂正文さんの紹介で水俣市袋地区茂道に漁師杉本栄子さんを訪ねた。袋地区は黒坂さんのアルバム「茂道」で詩(うた)われている通り、不知火海の美しく静かな入り江のほとりにある先祖代々の漁師たちの村だ。一方、水俣病患者多発地区としても知られていた。

栄子さんはこの時、開口一番「楽しかところに人もモノも寄ってくる。患者も同じぞ。」と言った。頭をガーンと殴られた衝撃だった。何か重く暗い「患者像」を勝手に「期待して」お話を伺おうとしていたのを見透かされたようだった。

僕は一生懸命ソーラン節を踊った。見透かされた心をかなぐり捨てるかのように。
「ようし。踊り比べじゃ負けんぞ。」栄子さんが踊ってくれたのは牛深ハイヤ節。水俣病になる以前は大漁の喜びを恵比寿様に感謝する踊りとして、水俣病になってからは不自由な手足のリハビリとしても栄子さんがずっと踊り続けてきた踊りだ。
「寝たきりになっても、目だけでも踊りたい」
踊りとは何かを教えられたひとときだった。

『2001水俣ハイヤ節』を全国集会のメインに!?

第32回全国公害被害者総決起集会。全国の公害被害者が年に一度「なくせ公害守ろう地球環境」を合い言葉に集まる大きな集会だ。荒馬座も何度か出演させていただいている。

構成担当の大門高子氏から、今回は不知火患者会と2001水俣ハイヤ節をメインに据えたいという提案をいただいた。

『2001水俣ハイヤ節』とは杉本栄子さんと荒馬座とで知恵を出し合って創った創作舞踊である。車椅子の踊りも創作したことで、症状の重い胎児性水俣病患者(※注1)も一緒に踊れる21世紀のハイヤ節となった。この踊りは今や袋小学校をはじめ、水俣市内の多くの小学校で踊り継がれている。また、子どもたちは言葉の不自由な胎児性患者と共通の踊りを踊ることで、言葉を越えたコミュニケーションをとることができるようになった。この踊りを今回は不知火患者会の皆さんに踊ってもらおうというのだ。

※注1...妊娠中の母親が水銀に汚染された魚介類を食べ、毒物が胎盤を通って胎児に流れ、生まれながらにして水俣病になった人たち。「この子が生まれてきたおかげで私の中の毒を吸い取ってくれた」と、この子たちを『宝子』とよんで大切に育てる母親も少なくなかった。

新たに起ち上がった不知火患者会

杉本栄子さんは第一次訴訟の原告である。裁判はその後、第二次、第三次と続き、この三次ではかなり広範な人々を救済する歴史的な政府和解案を勝ちとる。この和解案は長年の苦しみに耐え、これからも苦しみ続けなければならない患者にとって決して十分な内容のものとは言えなかったが、「生きているうちに救済を」という思いからほとんどの患者団体がこれを受け入れるという苦渋の決断をした。
8年後、和解を拒否して闘い続けた関西訴訟に最高裁は、これまで切り捨てられた人々も患者として認めるという基準を示す。これを受け、自分たちも水俣病と認めてほしいと次々に起ち上がる人々が現れた。「不知火患者会」である。
「水俣病は終わった」という世間の見方がある中でなんと1270名の原告が起ち上がるという大型訴訟に発展している。
難しい裁判だ。なぜなら、国、チッソからは「水俣病を巡る裁判は和解で全て終わっている。」とかわされ、今までの裁判を支援してきた人々からさえも、「何故、これまでの苦しい闘いの時に声を上げてくれなかったのか?」という声が聞こえてくるからだ。

栄子さんと共に猛特訓始まる

そんな難しい状況に置かれた人々が、自分たちの存在意義を訴える大事な全国集会で踊りを踊るということが果たして妥当なのか?いや、何より、患者の皆さんは本当に踊りたいのか?半信半疑のまま僕は水俣に飛んだ。

緊張気味の僕に最初に話しかけてくれたのはMさんというおばさんだった。
「衣裳はどげんするとね?」えっ、まだ踊りを教えてもいないうちから衣裳の心配をするとは...!?。まもなく栄子さんも到着。第一次訴訟原告の栄子さんが第四次訴訟の原告たちに踊りを教え、荒馬座の僕がそれを補佐するという不思議な講習会が始まった。

やがて場は笑いの渦となった。腰の落とし方について栄子師匠は水俣弁で下ネタを交えながら説明。これがおばちゃんたちの爆笑を誘う。
「おっも肘はこっしこしか曲がらん。あねさんたちもがんばって踊れ。」
障がい者が障がい者に踊りを伝える。僕はこの瞬間世界一大切な時間を過ごしていることに気がついた。

チッソ本社前の座り込み

東京大手町に加害企業チッソの本社がある。一週間後、僕はそこで「不知火患者会」と再会した。ここで今年二回目の座り込みを行うというのだ。Mさんとも今度は言葉ではなく、「ハイヤの振り」を合い言葉のように挨拶を交わすことができた。
「この前家に帰って『ばあちゃんな、今日はハイヤ節ば習ってきたよ。』て言うたらタイ、孫が『ばあちゃん、踊って!』て言うとタイ。踊ってみせたら、『違うよ。船はこう漕ぐとよ。』て叱られてタイ、『あんた厳しかね』て言うたら『栄子さんはもっと厳しかよ。』げな。」
Mさんのお孫さんは小学校ですでに栄子さんからハイヤを習っていたのだった。

「私の父は栄子さんたちと同じ第一次訴訟よ。この前NHKでチッソに寝泊まりして交渉する昔の映像があったが、あん中に父もおったとよ。」
父親は劇症型で苦しみながら死んでいった。やがてMさんも発病。しかし子育ての最中だったために、「今は我慢してくれ」というご主人の説得で裁判に踏み切れなかった。しかし、孫が生まれる年になり、知り合いの人に誘われる形で不知火患者会に加わった。

「お前も親父さんと同じようにチッソに寝てこい。」今日はご主人にそういって送り出されたという...。

荒馬座での最終稽古

集会前日。水俣からはるばる上京してきた29名の原告団が最初に向かったのは板橋のわが稽古場だった。集会翌日にはチッソとの3回目の交渉を控えているにもかかわらず、まずは踊りの稽古である。
僕は素直にこう思う。患者だって涙や怒りではなく、笑顔をみせて踊っていいじゃないか。彼らは原告以前にひとりの人間である。踊りの大好きな不知火海の漁師町の「人間」なのだ。

魂躍れ!おっどま人間ぞ!

集会当日。水俣の40分の持ち時間が始まった。第一次訴訟から不知火患者会が起ち上がるまでの歴史をビデオで振り返った後、共同作業所『ほっとはうす』に通う胎児性患者、金子雄二さんと永本賢二さんの発言だ。永本さんの父親もチッソに勤めていた。苦しかった胸の内を語ってくれた。そして袋小の子どもたちが創った『海』という歌を二人で歌う。言葉にはならないが「アーウー」という魂の歌声の中、栄子さんが静かに詩を朗読する。

「海はおるが命ぞ 海はおるが体ん中ば流れよる血たい」

栄子さんを真ん中にして不知火患者会が手をつなぐ。彼らに見守られるようにしながら永本さんが祈りの言葉をゆっくり読み上げる。「この悲劇を希望と未来につなげるまで生きぬきます。」と結ぶと法螺貝と銅鑼の音。クライマックスの2001水俣ハイヤ節のはじまりだ。水俣病特有の感覚障害は針を皮膚に突き刺しても痛みを感じないという。それでも素足で、車椅子の宝子も、栄子さんも、Mさんもみんながひとつになって踊っていた。命を精一杯輝かせて踊っていた。
この輪の中に目には見えない沢山の魂たちも寄ってきて躍っている気がした。

翌日のチッソとの交渉は相変わらずの冷たい対応だったという。
後日Mさんからは「楽しかった」との電話とともに、荒馬座に水俣特産サラダ玉葱が送られてきた...。

※杉本栄子さんは、2008年2月に逝去されました。