活動レポート

芸能団体支援活動レポート 被災地保存会への訪問(第一弾)

2011年4月 1日〜2011年4月 3日

「芸能団体支援活動」の手始めとして、座員二名が4月1日から2日間の日程で、三陸地方の保存会の方々をお訪ねしてきました。
そのときの様子を以下にレポートします。

大船渡市三陸町浦浜念仏剣舞保存会へ

4/1午前7時。狩野と岡田の二名は、まずは浦浜めざし板橋を出発した。
車には、鵜住居青年会より依頼のあった小学生男子のスニーカーや下着類と合わせて集まった女子用のもの、そしてキャベツ・ネギなどの野菜や二黄卵・調味料・ティシュペーパー・トイレットぺーパー・衛生用品などを満載していた。

東北道は空いていて、ガソリンを満載したタンクローリーやJR貨物そして自衛隊の車が多く目についた。郡山・福島あたりでところどころ地震の影響で亀裂があり、それを補修した跡で多少でこぼこしていたくらいで、スムースに走行できた。ただ高速道路のガソリンスタンドは営業していない所もあり余裕をもっての給油が必要だ。

一関に12時に着き一路陸前高田へ向かった。市内のスタンドも途中のスタンドもほぼ通常営業で、並んでいたのは高速を下りたすぐのスタンド一軒だけだった。

走る車窓からの風景は地震の影響は全く感じられず春の遅い東北の田舎という感じでだったが、2時間ほど走って少し広い地域に出てきて景色が一変した。いきなり瓦礫一面の風景が飛び込んできた。陸前高田はまだ先だと思っていたので、河原だろうと思われるところに家や車、トラックが重なり横転し鉄筋は飴のようにひん曲がり、想像を絶する津波の力にただ唖然とするばかりだった。

陸前高田市中心街に近づくにつれ見えてきたのは、見渡す限りの瓦礫とその先にある浜のような何もない灰色の平地。街は消えていた。そこ個々で重機が瓦礫を片付け、道路はどうにか片側一車線確保されていた。あちこちで自衛隊や消防団が捜索している姿が見える。高田松原は影も形も無く、テレビで繰り返し映し出されている病院が荒野の中にぽつんと残されていた。

堤防は破壊され、海が盛り上がったのか土地が沈んだのか分からないが、水面が道路脇まで来ていて大潮にでもなれば確実に冠水すると思われた。

大船渡方面に行く道は自衛隊による簡易の橋が架けられたり川を埋め立てて道を造ったりしてあり、それほどの渋滞もなく通り過ぎることが出来た。

陸前高田から三陸道が開通していて、大船渡に下りることなく三陸町に行くことが出来た。途中の道の駅に寄ったが、営業していて量や品目は少ないものの越喜来のワカメも販売していた。

坂を下り三陸町の中心地に向かった。予想はしていたがここも別世界だった。鉄骨はむき出しになりつぶれた家屋や家の上に乗っている自動車があちこちに見られ、ここも重機が絶え間なく動き家屋の撤去をしていた。

まず浦浜の念仏剣舞資料館を探したがどこだったか分からない。うろうろしていると消防団の詰め所らしきところが見つかり近づいてみると、資料館のあった場所は土台だけが残っていた。家も面も衣装も刀も全て流されて何もない。

その後、Kさん宅を探したが分からなかった。瓦礫の中をうろうろしているうちに見覚えのある坂道が見つかり、近づくと何も無くなった庭に立派だった松がかろうじて残っていて、ここがあの立派な構えのKさんの家だったことが分かった。

越喜来漁港も見に行った。防波堤は破壊され、分厚い防諜扉はどこにも見あたらず、港祭りをやった場所は何も残っていなく、やけに近くなった海が静かに波打っていた。

Fさん宅に向かおうとした時、道を歩いているKさんにバッタリ出会った。地震が来たときとっさに津波が来ると感じて、すぐさま逃げたそうだ。浜に近い人たちは三陸津波やチリ津波の経験があり、地震=津波がくると知っていてとにかく逃げたそうだ。
大丈夫だろうと思っていた少し高台の人が津波に巻き込まれ亡くなった様だ。

Fさん宅は何も変わっていなかった。電気も水道も無事で灯油も直前に満タンにしていてまさに日常そのものだった。夕食は持参した特製?のすき焼きを食べながら状況を聞いた。

棺が圧倒的に不足していて東京から仕入れようとしても必要な数が手に入らず、身元が分からない遺体は毛布にくるんでブルーシートで包み、トラックで東京の火葬場で火葬しているらしい。代替品としてコンパネを手配しようとしたが、行政が押さえて買えないとのこと。中学校は遺体安置所になっている。あまりにも死者が多く葬儀が出来ない状態がこれから長く続くだろうと言っていた。

浦浜念仏剣舞保存会に荒馬座からの見舞金を渡した。最初は、わざわざ来てもらった上に見舞金までは、と遠慮してなかなか受け取ってもらえなかったが、最後は「ありがたく頂戴します。この恩はいずれお返ししたい」と受け取ってくれた。
獅子躍り関係の道具はFさん宅にあり無事だったが、剣舞に関しては、その後面はいくつか見つかった事、太鼓は3台流された事、刀もいくつか見つかった事と、長刀の材質をブナにしたいので10組分の材料がほしいなど聞いたので、何が出来るか今後検討していきたい。

Fさんたちもこの震災でいろいろな祭りやイベントが次々に中止になっていることに危惧を感じていた。
「霊を弔い天災や災害を乗り越えようやってきたのが芸能なのに、震災があったからやめるのは飢饉だからと言って止めるのと同じで本末転倒だ、港祭りは出来なくても灯籠流しはやろう。念仏剣舞もいろいろ言うやつがいても山ではやろう」と意気軒昂だった。

食事の途中でも家がガタガタと揺れる大きな地震があったが震度5かな?とさぼど驚いていなかった。夜中にも大きな地震があり目が覚めたが、明け方の地震にはビックリした。「ゴー」という地鳴りを伴う大きな地震で「地鳴り」というものを初めて体感した。正直怖かった。

釜石市鵜住居虎舞(青年会)へ

翌日朝8時に鵜住居に出発。釜石を通ったが、地震と言うより津波の爪痕はそこここに見られた。釜石から鵜住居に続く橋が破壊され、最近出来た三陸道を通って隣町から戻る形で鵜住居に到着した。
ここでも市街地の変わり果てた姿に愕然とした。何度も来ていて分かるはずの街が目印になる店や建物が無くなっていて、青年会館もスーパーも橋も気がつかず通り過ぎるところだった。川(瓦礫で埋まっていて川と気がつかなかった)沿いを上って日方(ひかた)グランドの横にある日方公民館をめざした。川の両側は車が1台通れるように重機で道を開けていた。グランドはついに分からなかった。

日方公民館には消防車が停まっていて、前会長のMさんが消防団の制服で働いていた。
挨拶もそこそこに、元の場所から1キロほど流れ着いたという青年会館の建物に案内された。新しかった青年会館が見るも無惨に屋根だけ残し潰れていた。その下に保管してあった屋台の土台部分が見え、近くには何本かの赤い柱が散らばっていた。会館は避難所にも指定されていて何人か人もいたらしく、あの下にも人が居るだろうとMさんは言っていた。
2日ほど前の電話では避難所には人は泊まっていないと言っていたが、行ったときは2〜30人が避難していた。荷物を置く場所もなく、持って行った子どもの靴や衣類はすぐに消防車に積み込み、青年会用の食料は別の場所に降ろして、卵などは避難所に配った。

鵜住居青年会に荒馬座からの義援金を手渡す。わざわざ来てもらった上に申し訳ないとなかなか受け取ってもらえなかったが、青年会の復興に役立てたいと受け取ってくれた。

Mさん自身は地震が来たときに小学生達を避難させて、街を見回っていた時に津波に襲われ山まで流された。木にしがみついて助かったが、何人も沈んで行った人を見たと言っていた。鵜住居だけで死者は300人を越え今でも遺体が見つかっていて何人になるか分からないと言っていた。
避難した小学生の親の消息も分からない人が居て、青年会関係も全容が分からないらしい。

Mさんは自宅の2階部分が残っているが、最近泥棒が頻発して被害にも遭っていて、昼は消防車で配達や遺体の捜索(さっき一人見つかった)をし、夜は1日交替で夜警をしているとのこと。何処で寝ているのか聞くと、公民館に避難する人が増えたので消防車でも寝ていると言っていた。想像を超える激務に掛ける言葉も出てこない。
最近盛岡や花巻の温泉が避難者を受け入れるようになったので、避難所も少しすき始めたが、まだ20人ほどいるらしい。避難所には〜3日前に電気が通ったが、水道はポンプ小屋が壊れ復旧に1年かかるらしく、水は沢の水や井戸水でしのいでいる。食事は朝と晩(昼は無し)自衛隊の炊き出しのおにぎりが配られるが自宅避難者の分はないそうだ。
車そのものが流されてしまい移動の足が無く、買いたいと思っても車庫証明や印鑑証明が必要で、証明を出す釜石の警察が流されてしまってどうにもならないらしい。

翌日電話すると、その日の内に靴や洋服は子ども達の何カ所かの避難所に配ってきたとのことで、子ども達が喜んだのは靴と文具とトランプなどのゲームだったと言っていた。

4日の日にはSさんや新会長のTさんとも携帯が通じ様子を聞くことが出来た。Sさんは家を流され鵜住居の子ども達が避難している「甲子小学校」に避難しているが、小学校が7日から始まるので又何処の避難所に行くのか分からない。子ども達も低・高に分けられるらしい。

5日に青年会の会館を解体する。太鼓は見つかったが使えるかどうか分からない。災害による会社の倒産で解雇された青年会の会員もいる。復興にどのくらいかかるか見当もつかない。落ち着いたら青年会を招集し青年会及び虎舞について考えたいと言っていた。Tさんは、何年後かには虎舞を復活させるのでその時は力を貸して欲しいと思っている、今度来るとき出来れば会いたいと言っていた。

まとめ

●第一回の支援物資は小学生男子の靴と下着類という地元の要求がはっきりした物だっただけに出向いて良かったと思っている。短期間の呼びかけに対して予想を上回る物資が集まったのは日頃の関係とネットの力を改めて感じた。

●どこに行っても消防団が活躍していた。自分自身も被災者なのに、休み無く遺体の捜索・瓦礫撤去など心身共に厳しい仕事に愚痴も言わず、避難者以上に過酷な環境にありながら、地元のために黙々と働いている消防団の人々にただただ頭が下がる。

●今何が出来るか又何をしてはいけないのかを考え、単発の自己満足的な支援でなく、たとえ小さくとも地元の人々に必要とされる支援のあり方を模索していきたいと強く感じた二日間だった。