活動レポート

越喜来での十日間 ―荒馬座創立45周年記念公演第二部「浦浜の鎮魂歌」に向けて―

2011年8月16日に、岩手県大船渡市三陸町で「三陸港まつり」がおこなわれました。

三陸町の越喜来は『浦浜念仏剣舞』の地元。その越喜来も3月11日の地震と津波で甚大な被害を受けました。
人も、建物も、剣舞の面も刀も衣装も太鼓も流されました。それでも「こんな時のために芸能はある。」と、保存会長の古水力さんは8月7日の「初茶供養」、16日の「三陸港まつり」を今年も開催すると宣言しました。
そして、古水さんを始め「浦浜念仏剣舞保存会」の皆さんを中心にして、地域の復興とともにさまざま困難を乗り越えながら、2011年8月の「初茶供養」、そして「三陸港まつり」の開催に漕ぎ着けました。

以下は、その「初茶供養」・「三陸港まつり」の手伝いに荒馬座から加わった宮河伸行のレポートです。

越喜来での十日間
 荒馬座創立45周年記念公演第二部「浦浜の鎮魂歌」に向けて  宮河伸行

「津波が来るぞ!水門を閉めろ」「駄目だビクともしねえ」「もういい、逃げろ!」

岩手県大船渡市三陸町越喜来。
ここでは浦浜念仏剣舞という芸能が今でも受け継がれている。毎年8月7日、三陸町では様々な仮面を着けた人たちが、その年の夏に新盆を迎える全ての家々を廻り、それぞれの家の庭でこの剣舞を踊り、供養をしていく。遺影や位牌を正面にして実際に焼香をしながら踊る大変珍しい芸能だ。荒馬座としては40周年記念公演で舞台化して以来のおつきあいとなる。

写真 その越喜来が津波で流された。面も刀も衣装も太鼓も。
「こんな時のために芸能はある。」と、保存会長の古水力さんは8月7日の初茶供養、16日の三陸港まつりを今年も開催すると宣言した。
金津流浦浜獅子躍の庭元でもある古水さんに「45周年公演に向けて剣舞と獅子躍を元にした新しい芸能を創作してもらえないか。」と依頼したのは震災から二ヶ月後だったが、古水さんは快く引き受けて下さった。「題名は『浦浜の鎮魂歌』でいこう。ところで雨風に強い蝋燭はない〜港まつりでは311本の明かりを灯したい。」僕が答えたのは水俣の『棚田の灯り』だった。

写真 毎年、5月の夕暮れ時、水俣では水を張った棚田の周りに2,000本もの孟宗竹に藁を詰めた松明が灯る。使った竹は炭にして、川に沈め、水を浄化し、水俣の海を再生させるという活動をしているのが、愛林館館長沢畑亨さんだ。「そげんことだったら竹ば切って送ってよかよ。」
8月2日、僕も熊本への帰省がてら水俣へ。最後まで作業をお手伝いできなかったが、帰り際に沢畑さんが、「おーい、手ば休めて宮河君の送別会ばやろう。」とスタッフの皆さんを集めてくれ、僕は今回のお礼を言うはずが「311本の竹ば...」と言った途端、声が詰まってしまった。「こちらも心を込めて311本送ります。」スタッフの方の言葉が胸にしみた。

写真 8月6日。越喜来へ。ほとんどの衣装、道具がまだ見つかってなかったり、破損で使い物にならない。そして何より古水さんの悩みの種は道具置き場がないということだった。「国を待っていられない。自分達で郷土芸能の仮設住宅を作るべ。」この日の作業はなんと、トラックからコンテナを切り離すこと。土台を作った大工さんの腕は見事で、寸分も違わずコンテナが土台の上に収まった。開閉式の仮設住宅の誕生だ。

7日。初茶供養。頭につけるザイは間に合わず、隣の地区からお借りした。手甲も、網を輪ゴムで止めているのが痛々しい。
毎年、新盆を迎えるのは20軒前後だが、今年は70軒以上。この日は震災以外で亡くなられた方の家を中心に周り、14日に残りの家を回ることにした。去年は確かここに家があったのに...。猛暑の中、瓦礫に囲まれた、去年と全く違う風景のなかで一軒一軒心を込めていつものように剣舞は踊られた。

写真 8月8日。水俣から送られた311本の竹を確認。中には小さな竹もあり、早く燃え尽きてしまうと思ったが、じっと見ていると「子どもの魂」に思えてきて、なんだお前たちも来てくれたのかと納得した。

9日・10日。津波で流されたザイと、腰につけるシカをみんなで作り直す。14日の供養に間に合うのか?

写真 11・12日。311本の松明の仕込み。竹に藁を詰め、バイオディーゼルオイルを浸す。食用廃油から作るので、燃やしても甘い匂いが漂い環境にも優しい。
夜、青年達と昨年の剣舞のビデオを見ていたら、敬老会で踊る映像がたまたま入っていた。喜ぶ元気なお年寄りたち。「この婆ちゃんもういないよ。」...。『特別養護老人ホームさんりくの園』。50人以上にのぼる津波の犠牲者が出た場所での最後の敬老会の映像だった。
13日。ザイとシカ、ついに完成。
写真 14日。新しいザイとシカのお披露目。7日に踊ることができなかった、津波の犠牲者のお宅を回る日だ。
この日、是非踊らせてくれと、北上市から『北藤根鬼剣舞』の皆さんが駆けつけてくれた。浦浜念仏剣舞の歴史始まって以来の『鬼剣舞との合同供養』だ。もう誰もいない『さんりくの園』。その「誰もいない建物」に向かって踊られる鬼剣舞と浦浜念仏剣舞。立ち会って下さった職員の方も、涙が止まらない様子だった。

仮設住宅も一軒一軒回っていく。ご遺影に向かって踊られる、子どもたちの「拝南無」という踊り。亡き方がプレハブの建物の入り口で「よく来たね」とニコニコ笑いながら座ってらっしゃるようにも思えた。

写真当初、『さんりくの園』だけの予定だった鬼剣舞も最後まで行動を共にしてくれた。浦浜が踊り終わり、道中囃子がまだ続く間に、そこに割り込むようにダダスコダダスコと鬼剣舞の太鼓が始まる。「観光化」された観もある北上の鬼剣舞だがこの日は鬼剣舞も、念仏剣舞も、「誰のために、何のために」踊るのかという芸能の原点のところで響き合っていた...。

「まだ見つけきれてないよ!」
2011年10月8日、「ひたち秋祭り」の交流会でのこと。K君が嗚咽し始めた。あの日、津波に流されながらも奇跡的に助かった鵜住居虎舞のS君が「生きていて良かった!青年会で良かった!」と涙ながらに叫んだのを受けて浦浜の3・11の話に移ったときのことだった。「胴体だけでも見つかればまだいい。婆っちゃ、寒かったべ?って声かけて...。」

写真 8月16日。いよいよ「港まつり」当日。はるばる三宅島から『神着木遣太鼓』の皆さんが到着。浦浜と三宅はその日立で競演してすっかり意気投合した仲だ。全島避難という大変な苦難を経験した太鼓のメンバーが「人ごとではない。」と今回友情出演してくれた。
「港まつり」はまず、円満寺から、獅子躍を先頭に、灯籠を手に持った人々が会場まで歩く所から始まる。いつもならこの灯籠の行列は港へ向かうのだが、今は港はない。瓦礫に囲まれた公民館駐車場跡地が祭の会場である。
祭の開会時間が迫っているから少しテンポを上げろと古水さんが指示する。ところが、ある場所で、指示に逆らうかのように獅子躍が立ち止まった。『さんりくの園』の前だった。
「きりりどぉーしめてささらをーそろえー」...彼らのほとんどが消防団員でもある。津波が来ると分かって最初にやらなければならないのは水門を閉めにいくこと。でも作動しないことが分かり、命からがら高台に逃げたK君は、五月に再会した時、「ノブー生きてたぞ!」と後ろから抱きついてきた。そして震災後の彼らの最初の仕事は、はじめからその部屋に眠っていると分かっている、さんりくの園の「寝たきりの爺ちゃ婆ちゃ」に会いに行くことだった。
ザァンズク ザァンズク...、12日の夜、ビデオを見ながら、「この婆ちゃんもういないよ」と教えてくれた青年達の歌声と太鼓が誰もいない建物に響く。

写真 祭は始まった。311個の魂の明かりは見事に灯った。海が汚され、無数の犠牲者を出した『水俣』の竹。今、また、この東日本の海と空も黒く汚されつつある。火は明々と、生きもののように揺れて、古水さんが彫り上げた『鎮魂と復興』の文字を照らしていく。
松明から流れる煙の中で踊られる獅子躍は幻想的。そして三宅島の太鼓。「イエーエー越喜来の復興だー」「イエーエー東北ガンバーレ」この歌詞は会場を一つにし、自然とワッショイワッショイのかけ声が巻き起こった。「ありがとうー!」拍手は鳴りやまなかった。

写真 荒馬座創立45周年記念公演第二部では、今回の『三陸港まつり』を再現したい。
こんな時だからこそ芸能をという古水さんと一緒に『浦浜の鎮魂歌』を練り上げ、そしてこれまでご縁のあった中野七頭舞、鵜住居虎舞という被災地の芸能団体の皆さんのお力もお借りしながら、希望が湧く舞台を共に創っていければと思っている。