活動レポート

『十王鵜鳥舞』の創作に関わって 新しい芸能の創造 百年後も続く芸能を目指して

『十王鵜鳥舞』は、2005年に荒馬座で踊りの振り付けやお囃子などの創作を担当して、茨城県日立市の十王中学校の生徒たち・先生方と一緒に作り上げた新しい創作芸能です。
2004年に旧十王町が日立市に合併し、それを機に日立市の恒例事業「ひたち秋祭り郷土芸能大祭」に十王中学校で「新しい芸能」で出演してという話が持ち上がり、荒馬座も創作に関わることとなりました。
十王町の風土・歴史、日本唯一の「海鵜」捕獲地であるということなどを基に、生徒や先生方と一緒に稽古しながら、衣装や持ち道具、踊りの振りなども生徒のオリジナルのものを取り入れ、歌は地域の『常磐炭坑節』の節回しで生徒が歌詞を創作して、この『十王鵜鳥舞』を創り上げました。保護者の皆さんにも衣装や持ち道具の製作などに多大なご協力をいただきました。
十王中学校では、「鵜鳥舞活性化委員会」を設けて、生徒たちが自主的・自発的に活動しながら、「百年後に残る伝統を創る」ことを目指して『十王鵜鳥舞』を踊り続けています。

荒馬座創造委員会 宮河 伸行(担当座員)より

創作の背景

『十王鵜鳥舞』は茨城県日立市の十王中学校の生徒たちが2004年から取り組んできた創作芸能だ。
旧十王町は2004年11月に日立市と合併した。この合併を機に、十王中学校が、日立市の恒例事業「ひたち秋祭り郷土芸能大祭」に「新しい芸能」で出演したらどうかという話が持ち上がり、荒馬座も創作に関わることとなった。

写真当時の教頭先生が歴史がご専門で、十王町の風土・歴史に精通しておられた方だったので、町の中を詳しく案内していただく中で、この町の魅力にすっかり引き込まれてしまった。
まず、日本唯一の「海鵜」捕獲地であるということ。長良川の鵜飼は有名だが、あの漁で使われる鵜は十王町伊師浜の断崖で捕獲された海鵜である。海鵜捕獲伝承者・沼田弘幸さんが篠棒を巧みに使って、断崖で羽を休める海鵜を傷つけることなく捕獲する様子は見事だ。何より沼田さんの自然や命に対する優しい眼差しが印象的だった。

竪破山(たつわれさん)の七奇石三瀑は今風に言えば十王の「スピリチュアルスポット」。不思議な形の岩を探しながら山登りするのも楽しい。特に太刀割石は圧巻だ。どうしてこの大岩が、しかも山頂で綺麗に割れているのか不思議だ。その昔、八幡太郎義家が黄金の刀で真っ二つに割ったという伝説が残っている。
ところでなぜ十王という地名か?十王そのものは閻魔大王をはじめ、あの世の入り口で、死んだ人の生前の行いについて裁く十人の裁判官のことだが、地名の由来の痕跡が町のどこにも見あたらないのは大きな謎だ。これは歴史上、神道が強くなり、仏教を弾圧した時代に十王信仰の痕跡も破壊されたのではないかと想像できる。実際、竪破山の神社には「神社」なのに寺にいるはずの「仁王様」が「隠して」まつられている。

また、十王町は、映画『フラガール』の舞台となった常磐炭鉱の町であり、坑夫たちが歌った常磐炭坑節は広く知られる民謡である。
毎年、稽古のはじめに生徒たちに二つの質問をする。「お葬式でお米で焼香(の所作)をしたことがある人?(神道の葬式)」「おじいちゃんが炭鉱で働いていた人?」今でも手を挙げる生徒は少なくない。

芸能の完成まで

写真このような十王町の魅力をそれこそ縦横に語り合いながら当時の二年生と芸能の具体化を進めていった。ゼロからのスタートだったが本当に人に恵まれた。
芸能のヒントを与えてくれた教頭先生、生徒指導の担当はまだ新任だった日野先生。その若さで熱く熱く生徒とぶつかっていく姿に我々も心打たれた。日野先生と対照的にこの年で教師生活最後となる深津校長先生は全てを温かく見守ってくださり、芸能完成を記念して学校に大太鼓まで寄付してくださった。

衣装、持ち道具のデザインは生徒の意見を最大限尊重して具体化していったが、実際の製作にあたっては保護者会のお母さんたちの大変なご苦労があった。
振り付けも生徒のオリジナルのものを取り入れ、歌は常磐炭坑節の節回しで、これまた素敵な歌詞を生徒が創ってくれた。

何より、踊り、太鼓、歌、篠笛、全てがゼロからのスタートだったが、「技術」を獲得し稽古を積んでいった第一期の生徒たちの努力は見上げたものだった。

第一期の悔し涙、そして民話が生まれるまで

写真こうして迎えた一回目の2005年「ひたち秋祭り」。『十王鵜鳥舞』の日立市民へのお披露目の日、生徒たちは晴れの舞台へと向かった。ところが無情にも踊りの途中で雨が降り出す。生徒たちは踊りを中断させられてしまった。生徒たちも、そして日野先生もみんな泣いていた。中断させられたのはいよいよ自分たちが創ったオリジナルの振りに入るまさにその時だったからだ。僕は彼らに合わせる顔がなかったが、半年前まで踊りとは無縁だった彼らが今、「踊れなくて悔しい...。」と涙を流していることが嬉しかった。

写真一昨年、その日野先生がまた踊りの担当となった。日野先生は「シナリオ」を生徒に作らせたいという。踊りの背景にある物語だ。生徒たちに十王の歴史、風土を改めて調べさせて原案を作ってもらい、意見交換をしながら舞台向けに練り上げる作業が始まった。その中で、「男たちは海鵜を捕まえて食べた。」という文章が出てきた。「いくら何でもそんな創作はないだろう?」とシナリオ係の生徒に突き返すと、「いえ創作じゃないんです。本当に食べていたんだよねえ。」生徒たちは皆一様に頷いている。「十王風土記」という書物のなかに、昔は鵜飼に使えそうにない海鵜は食べていたという記述が本当に残っているというのだ!
こうして係の生徒を中心にシナリオは完成し、物語を踊りの中にちりばめて上演するという「朗読舞踊構成」が完成した。

この年2007年「ひたち秋祭り」は雨に祟られることなく、生徒の朗読も大成功し、「いいものが出来た!」と日野先生も二年前のリベンジを果たすことができた。

写真

さらに深まった四年目

そして迎えた四年目の舞台。今年の担当は国語の奥村先生。荒馬座としては一年目ほど生徒たちと関わる機会は少なくなったが、生徒たちの方が「活性化委員会」を起ち上げ、もうすっかり学校の伝統行事として自立している感じだった。
特に今年の十人の十王役の生徒たちの踊りは踊りが大好きで立候補しただけあって、光り輝いていた。本番直前に僕をつかまえて振りの細かい確認をするくらいの熱心さだった。

写真また、今年2008年から小太鼓と手平鉦が加わったことで囃子の厚みが出てきた。踊りも最後に海鵜と鵜捕りの連続ジャンプでクライマックスを盛り上げるようにし、生徒たちも頑張ってこの構成の意図に応えてくれた。
今後の課題は、朗読と踊りのバランスにまだ工夫の余地があるという事。これもその年の生徒や担当の先生の意向を尊重しながら少しずつ整理していきたい。

いつか十王中を卒業した荒馬座員が、母校にこの踊りを教えに行く、そんな日が来ることを勝手に夢想している。

新たな郷土芸能を育て、生徒たちと続けていきたい!
 日立市立十王中学校 二学年「鵜鳥舞」担当 奥村 仁史先生より

写真写真日立市十王町は、かつては常磐炭坑の町として栄え、全国唯一の鵜の捕獲地である伊師浜海岸、八幡太郎義家伝説や「七奇石三瀑」のあるなど、歴史や自然に特色をもつ町です。
これら地域の特色と「ふるさと十王」への思いを、踊りと歌で表現するものとして『十王鵜鳥舞』が始まりました。ここには、新たな郷土芸能を地域と共有し、育て、継承していこうという願いが込められています。

基本となる踊りやお囃子は、『民族歌舞団荒馬座』の指導を受け、衣装の制作は保護者や地域の方に依頼し、十王民謡会の指導や鵜捕獲技術伝承者の沼田弘幸氏の講演など、専門家の協力をいただくとともに、地域の教育力を積極的に活用しながら活動を展開してきました。

写真四年目の今年2008年は、昨年度までの反省点をもとに、お囃子の楽器を増やしたり、構成を工夫したりと改善を試みました。
まず、お囃子については、今までは大太鼓と篠笛だった楽器に、新たに締太鼓とチャッパを加えました。楽器を加えたことで、お囃子に厚みが増し、踊り自体も迫力が増して見えるようになりました。
また、構成については、シナリオ・歌・踊りが関連しながらストーリーが進むようにすることで、見ている方に分かりやすい演技になるよう工夫しました。

そして、昨年度(2007年度)に立ち上げた「鵜鳥舞活性化委員会」の活動があります。「鵜鳥舞活性化委員会」は学年で立候補した生徒たちで構成され、練習計画の立案やシナリオの作成、踊りの構成などを考案する活動を行っています。今年度は、その活動も軌道に乗り、生徒たちが自主的・自発的に活動する下地ができつつあります。

今後も荒馬座の方々をはじめ、多方面からの協力を受けながら、「百年後に残る伝統を創る」をモットーに、生徒たちと『十王鵜鳥舞』を続けていきたいと思います。